これは月刊自然医学(2002/9月号)に掲載させている森下先生の巻頭随想の解説編です。

随想集 TOP PAGE

2002/9 現代死体栄養学

食物が、実際に体にもたらす栄養効果というものは、その食物を食べる人のもともとの体質や、その食物を食べる時の体調および精神状態といったもろもろの条件によって、左右されるはずのものである。

食品自体がもっている有効成分がそのまま機械的に溶かされ、体に取り込まれていくというわけではない。

現在、通説となっており、世間一般にも通用している分析栄養学的な解説は、「食べられる存在である“食物”」と「食物を取り入れる側である“人体”」の、両者それぞれについてのまことしやかな仮説の上に築かれた「砂上の楼閣的・御伽噺」に他ならない。

まず前者の食物の側では、ある特定の食物が「栄養分析表」に記載された通りの栄養成分を持っているものと仮定されている。

しかし、実際は違う。ほうれん草を例に取ると、分析表の数値というものは、全国の生産地の中から数箇所をピックアップし、そこで生産されたほうれん草の分析結果の平均値である。

それゆえ、栄養分析表に記載されている規格通りの数値(内容)を有しているほうれん草が、もし在るとすればそれは全くの偶然であり、極く極くマレなケースと言わなければならない。

さらに問題なのは、もう一方の後者である人体の側である。
ここでは、食物に含まれている栄養成分は、ただただ機機的に分解され、吸収されていくだけのもの、と仮定されている。

しかし、これも実際は全く違う。
食物が人体に対して果たしている役割は、自動車に対するガソリン、蒸気機関車に対する石炭などと、ちょっと見は酷似しておりながら、内実は全く異なるものである。
これらが単なる物理現象であるのに対して、「食物と人体の関係性」は、生命現象であるからだ。

ガソリンや石炭などの燃料が、車体そのものの構造体である鋼鉄とか、部品とかに変貌を遂げるなどということは、金輪際無いものだ。

それに対して食物というものは、森下自然医学の基礎理論を理解している人ならば、先刻承知の「食→血→体」(食物が血液に変わり、血液が体細胞に発展する)といった発展構造に組み入れられている存在である。
両者は、もともと同じ次元で論じることなど決してできないものである。

同様に、「食物・カロリー説」も全くの虚構である。
特定の食物に「一定のカロリーが在る」と考えるのもフィクションなら、その特定の食物を摂取することで 「体に一定のエネルギーがプラスされる」と考えるのも完全な幻想に他ならない。

では、実際のところはどうかというと、まず、われわれが食事を摂るときの諸条件が、影響を与える。
その時の環境や雰囲気、その人自身の精神状態や食物を噛む回数などがそれだが、これらは意識的に変更可能なものだから、食事に際しての「随意条件」と言える。

口から取り入れられた食物は、次の段階では消化作用を受けることになる。
これは人間の意識が介在しない「不随意」作業であるが、ここに於いても、各種消化液(唾液、胃液、十二指腸液、膵液、胆汁、腸液など)の分池量とか、それらに含まれている酵素の活性度などは、個人差が極めて大きい。
腸内の腸内細菌群の在りように於いては、それを遥かに凌ぐバラエティーぶりで、まさしく千差万別である。
しかも、以上の「随意」「不随意」のすべての条件は、同一人物に於いてさえも、その時どきの体調によって少なからず変化するのである。

これが現実なのだから、今一般に流通している分析栄養学は、生きている生命体には全く通用しない「死体(しにたい)栄養学」と言う他はないものなのである。

因みに、“死に体”とはもともと相撲用語で、体勢がくずれて立て直しがきかなくなったものを言う。

BACK

当サイトは通産省個人情報保護ガイドラインに基づいて運営しております
当サイトの画像及び掲載内容の無断転用は固くお断りいたします

トップページ お客様の声  無農薬の玄米とお米のご注文 order 我が家の無農薬の米 culture 我が家の食と住 mylife 自然医学の田んぼ health コラムなページ hello 遊んでいって rest 質問・問合せフォーム
このサイトは百姓アグリの苦心?の手作りです。
日本のほぼど真ん中に位置する滋賀県。
日本最大の水たまり琵琶湖。
我が家はその東側に位置する蒲生町というところに生息しています。
「生き生き、わくわく」をモットーに、
無農薬米や不耕起直播栽培など、
サステイナブルな米作りを目指して楽しく百姓をしています。
ご感想やご意見、よろしくね。